この理屈の裏返しで云えば、"もし、モンゴル帝国という国が19世紀までの世界地図に存在しなかったら、それまでの世界の歴史はまったく違ったものになっていたにちがいない"と確信した。
江戸東京博物館で開催中の「チンギスハーンとモンゴルの至宝展」は、モンゴル高原の遊牧騎馬民族の歴史を、紀元前4世紀から紀元12世紀までの戦国時代と、チンギスハーンの出現によって統一された13世紀以降とに時代を分け、西は地中海、東は中国、北はロシア、南はベトナムまで~最盛期には世界地図のほとんどを塗り潰した大モンゴル帝国の桁外れのスケールを、一堂に集められた数々の貴重な展示品を通して紹介している。
馬に乗るために考え出されたというズボンやブーツといった身近なものから、投石機など巨大な武器を馬を轢かせて機動的に使ったことから生まれた「戦車」といったものまで、世界の歴史から今に繋がるさまざまな"原型" を、モンゴルの歴史の中に見つけることができる。
個人的には、ゲルと呼ばれる移動式住居や、寒さを凌ぐために考え出された袖の長い衣装などに、現代のアウトドア用のテントやウェアの原型を見た気がした。
会場を一歩外に出ると、隣接する両国国技館の櫓の上から威勢の良い太鼓の音が響いてきた。
今日は大相撲トーナメント、すごい人だかり。
時の人 朝青龍も、母国のこの展示が、この時期にあるのを知っていただろうか?
引退騒動の折もおり、ちょっと皮肉な巡りあわせだ。
獣よけ高電圧線を潜りぬけて一息ついていた場所は、どうやらこのおじさんの竹細工工房の軒先だったらしく、私が勝手に上がり込んでしまったようだ。
「水鉄砲ですか?」との自信のない返事に、おじさんはポケットからアルミ箔の玉のようなものを取り出し、竹筒に込めてパチン!と打ってみせてくれた。
「昔はアルミ箔玉じゃなくて、こうして豆を飛ばして遊んだんだ。豆鉄砲だよ。ほら、ハトが豆鉄砲くらったような顔、っていうだろ」
はぁーん、なるほど。はじめて見ました。
「いつでも遊びに来な。作り方おしえてやっから」って。
オレ、そんなに若くないんっスけど。
駅前の観光案内所に置いてあった観光ガイドマップを頼りに"五日市を一望できる”という「城山」へと向うことにした。
市街地からちょっと外れたわき道へ入ると、すぐに登山口。
そして城山山頂へと続くルートは、どこも日差しが明るく気持ち良い。
標高500Mほどの山頂からは、都心から伸びるJR五日市線の線路と、その先の福生、八王子の町並みまで見渡せる。
城山山頂から西へと続く尾根を伝い、荷田子峠を経て、再び五日市市街地へ。
ところが山から街へと入る手前で、獣よけの高電圧線に行く手を阻まれた。
そういえば、下山途中の斜面に巨大な送電塔があったっけ。注意書き看板をよく読んでから、おそるおそるネットをたくし上げ、なんとか無事通過。
いわずもがな、ここが本日最大の難所だった。
事前に、地名の読み方を勉強をして行かないと、地元で道案内を請うこともできません。各云う自分がそうだった。
JR武蔵五日市駅前から出るバスの運転手さんに「このバス、払沢(フッさわ)の滝まで行きますか?」と尋ねたところ、「(フッさわ)には停まらないけど、払沢(ホッさわ)なら行くよ」と、すこぶるふるったご案内をいただきました。
まあ、バスの運転手も、過去何万回と同じ質問をされて、ウンザリしていたのでしょう。
肝心の山行の方はといえば、「払沢(ホッさわ)の滝」から浅間(せんげん)嶺登山口へ入り、時坂(とっさか)峠、人里(へんぼり)峠を経て、浅間嶺(標高903m)へ。その先の数馬分岐から数馬の温泉街へと抜ける全長11キロほどのコース。一旦、浅間尾根に出てしまえば、あとはアップダウンのすくない平坦な道のりがつづく。登山というよりハイキングといった感じだ。
このコースは、その昔、武蔵の国と甲斐の国との間で物資を輸送するための貴重な産業道路だったらしい。
当時は、馬で荷を運んだというだけあって、途中にある茶屋なども、どこか生活感のあるたたずまい。
高尾山あたりの登山客相手の茶屋とは明らかに違った趣がある。滝あり、眺望あり、歴史あり、温泉あり~東京の近場でちょっとハイキングをしてみたい、という人には、まっ先にこの「浅間嶺(せんげんれい)」をお勧めする。
彼の教会建築の集大成が、今も北海道函館市の観光名所ともなっている函館ハリストス教会だったのだ。
世田谷美術館で開催中の「内井昭蔵の思想と建築」展の会場に足を踏み入れた途端、天井壁面に映し出された見憶えのある雪化粧をした函館ハリストス教会の写真と、巨大なその設計図面に目を奪われた。
自分が通った幼稚園は、この教会と道を挟んだ向かい側にあった「ハリストス遺愛幼稚園」だったーかすかに記憶がある。
あの教会が日本人の設計だったなど、今まで思ってもみなかった。子供心にも”柵の向こう側の教会は外国”と思い込んでいた。
ところで、なぜこの展示のタイトルが「内井昭蔵の~」なのかといえば、内井昭蔵の祖父がこの河村伊蔵だからそうだ。
ぢゃあ、内井昭蔵って誰?というと、この人も現代の建築設計家。かくいう当世田谷美術館もこの人の設計だという。
そういうことらしい。
雲取山に次いで奥多摩で2番目に高い鷹ノ巣山なら、もう雪が積もっているだろうーと、今シーズンになってお目にかかっていない雪山に気持ちが逸るあまり、下調べもそこそこに連休初日に鷹ノ巣山へと飛び出して行った。
奥多摩駅前から登山客を満載したバスは、息を切らしながらツヅラ折りの山道を走り、終点の中日原バス停でドアをあけて、車内の熱気とともに乗客を大きく吐き出した。
そしてみんなが向かう方角はといえば....あらあら自分とは反対方向へ。
えっ!鷹ノ巣山は、おれと、あのおじさんだけ?
実際に登ってみて、人気のない理由がわかった。
”奥多摩随一の急登”とは、麓から山頂まで延々と3時間、まっすぐに登り続けるだけのコースなのだ。
しかも、足を膝の高さまで持ち上げないと進めないよう段差が、5分に1回くらいの頻度で出現するまさに急登の連続。
登山ルートはブナなどの巨木に覆われ、途中視界が開ける場所もほとんどない。
一歩登るごとに、おもしろいようにグングン高度計の数字が上がっていく。
ただ、同時に息も上がってきて、腿から背中の筋肉がジンジンしてくる。
これは修行ですよ、山岳修行。
今回の収穫は希望していた雪に巡り会えたことと、一気に視界が開ける山頂の風景を堪能できたこと。
鷹ノ巣山は、多くを望まず、苦行を通じて自分を見つめなおしたい、といった人にぴったりかと思われる。
正直なところ、塔の岳そのものは、標高1500mほどの気楽に登れる都心から近い低山~というほどの印象しか持っていなかった。ところが実際登ってみると、なかなかどうして登り応えのあるいい山だった。
その魅力の1つは、コースが起伏に富んでいて、冒険者気分を堪能できる点だ。
今回、山頂までのアプローチが最も長い「表尾根」と呼ばれる登山ルートを選んだことが、結果的に良かったようだ。登山口の蓑毛から塔の岳山頂へのルートは、ほとんどがガレと呼ばれる岩場の連続。傾斜のきつい岩場を登りきったと思ったら、これまた急な岩場を下るといった動きを繰り返していく。特に傾斜fが大きい行者ケ岳付近はクサリ場となっていて、4本の手足をフルに使って岩に張り付くことになる。
登山地図上では「(危)」マークのつくこのあたりが、実は一番オモシロイ部分だった。
もう1つは、山頂からの眺め。西に富士山、南に相模湾、そして東に横浜あたりの夜景と、体の向きを変えるだけで一望できる。
夕日に染まるオレンジ色の富士山を望みつつ、振り返ると、街の灯りが瞬きはじめて「夜景」が出現。
山頂に立つ「尊仏山荘」は、”塔の岳ビューホテル”と誇って名乗りを上げてもよいほど。
さらには、人だ。
都心から近いためか、山小屋「尊仏山荘」には常連客があふれていた。
毎年12月29日には、ここで忘年会をするのが恒例という6人ほどのおじさんグループと遭遇。
私がチェックインした15時ころには、すでに宴たけなわ。つぎつぎ山荘に入ってくる登山客は、そのまま宴会の輪に巻き込まれているという愉快な雰囲気。
夕食のメニューは1年中カレーライスと決まっているくせに、「ここは正月からカレーが食べられる珍しいレストランです!」と自己紹介する陽気なご主人。
決して難しい山ではないく、日帰りも十分可能な丹沢 塔の岳だが、あえて山頂で1泊するのがお勧めだ。
山荘での忘年会はこの時期しかやっていないが、起伏に富んだ冒険ルートと、山頂からの絶景、そして山荘のカレーライスはいつでも待っていてくれる。
東京国立博物館で開催中の「土偶展」は、国宝3点を含む70点近い土偶のオンパレードだ。
1万年以上の昔、縄文人が土をコネって作った人がたの「土偶」とは、幼児が手遊びでつくる粘土細工のようなもの、では決してない。
デフォルメされたシルエット表現と、表面に施された高度に連続性のある意匠、そして安定感まで考えつくされた構造などから、明らかに大人の手によるものであることがわかる。
今もってわからないことだらけとはいえ、CTスキャンを使って土偶の構造をしらべていく中で、新たな発見もいくつか出てきているようだ。
特に注目を浴びているのは、土偶の内部構造。
これまで日本全国で発掘された14000体に近い土偶のほとんどは、手足や頭部の一部が破損していて完全体のものが極めて少なく、その破損片も周辺から発見されないーというのが永い間ナゾだったらしい。
CTスキャン分析の結果、土偶の胴体部は作られる過程で内側から補強された痕跡があるのに対し、手や足、頭部にはその補強の痕跡がほとんど見られない、ということ分かってきたそうだ。
このことから「土偶は、最初から体の部位を壊すために作られたのではないか?ケガや病気の治癒を願った人々が、土偶を身代わりにしてその部分を叩き壊すーという祭礼があったのでは?」という見方が出てきているそうだ。
ただ、文字の記憶を持たない時代の遺跡調査は、やはりどこまでいっても想像の世界でしかない。
今後もあたらしい発見によって、われわれの想像の手がかりが広がることは、愉快なことだ。
土偶=宇宙人の姿という説も、なかなか捨てきれない。
「まったくターナーですね。どうです教頭、我々はこれからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか」と、赤シャツの感嘆に、媚びる野だいこが合いの手を入れる。
「ターナーとは何のことだか知らないが、”我々"の中に俺も入っているなら余計な迷惑だ」と鼻白む坊ちゃん。
夏目漱石の「坊ちゃん」の中の、有名なこの釣り船の上でのシーンがもとで、瀬戸内海にうかぶ青島が、今も地元では「ターナー島」と呼ばれていることを、2年前に松山を旅行した折、はじめて知った。
ただ、そのターナーの画というのは、今日までついぞ目にしたことがなかった。
府中市立美術館で開催中の「ターナーから印象派へ」展で初めて見たターナーの画は、どんより曇った灰色の空と、日本海のような荒々しい波とが描かれた、イギリスの海岸線の風景画5点だった。
あいにく赤シャツのセリフにあるような松の木が描かれたものはなかったが、雲の切れ間から差し込む光が、風景の輪郭を浮かび上がらせた見事な水彩画だった。
確かにこれは、一度目にすると忘れられない類のものだ。
おそらく明治時代の初期に何処でターナーの画を目にしたのだろう 夏目漱石が受けた印象はきっとそれ以上だったに違いない。
松だけでなく、目の前の風景全体を切り取って「ターナー島」と名づけた野だいこのセリフは、夏目漱石自身のターナー像だったのだ。
meckyさんのフロアの標高は、私の手元... read more
on 奥多摩 鷹ノ巣山