少々の不安から、金峰山に登る前 行き着けのアウトドアショップの店員に必要な装備を相談すると、「えっ!」と大げさに吃驚された上に、「この時期の金峰山に登るのなら、最低でも6本爪のアイゼンとピッケルくらいは用意しないと危険ですよ」と脅かされる始末。
巧妙な脅迫型マーケティングに屈し、新たに6本爪のアイゼンを購入する羽目に。やっとのことで、ピッケル購入だけは思いとどまった。
登山前日から麓の山荘に入るため、韮崎駅前でT氏と待ち合わせ。果たせるかな、T氏のリュックには新品の12本爪アイゼンとピカピカのピッケルが。
T氏よ、君も゛屈した゛クチだったのか。でも買ってしまった以上は、存分に使うべし。
(結局、今回ピッケルは一度も使わなかったね。せっかく(?)滑落したのに、リュックにぶら下げたままのピッケルは役に立たなかったよーで)
昨年末の雲取山登山で味をしめて、雪山第二弾 金峰山へ挑戦してきた。
今回も雲取山マイスターT氏を誘っての同行二人。
長野県、山梨県の両県にまたがる奥秩父の名峰 金峰山は標高2599m、1年の半分は雪に覆われているという本格的な雪山。
前日の夕方に麓の登山口にある瑞垣山荘に入り、本日夜明けとともに山頂アタック&ピストン下山という強行日程だ。
あらかじめ、天候と積雪量によっては、登下山に最大9時間と見積もり、いざという場合は途中で引き返す覚悟も決めていたほど。ところがうれしいことに朝からの快晴無風という最高のコンディション。結果、予定より2時間早い、全行程7時間でフィニッシュできた。
ただ、決してラクではなかった。
標高2000mを過ぎたあたりからアイスバーンの斜面と緩くて深い雪に足を取られ、森林限界とされる2300m付近にある「千代の吹上」では断崖絶壁を伝う細い雪尾根道に、肛門が縮み上がるほどの恐怖を覚えた。
その分、真っ白な山頂の五丈岩にたどり着いた時は言葉にならない充足感。
見渡せば南に富士山、西に南アルプス連峰、北西には北アルプスが同じ目線の高さにずらっと並んで見える。
これ、絶景。
ただ、吹き付ける風の冷たさに、山頂で長居ができないのが冬山登山の宿命。
山頂での締めくくりは、雪をジェットボイラーに放り込んで沸かして作るアツアツスープ。
果たしておいしかったかどうかは、作って飲んだT氏のみぞ知る。
今から25年前の1984年2月12日、アラスカ マッキンリー登頂を伝える無線連絡を最後に消息を絶った植村直己氏の”最後の冒険”の足跡をたどる企画展示「山頂に残された旗」を観に、板橋区蓮根にある植村冒険館へ行ってきた。
館内2Fにある小さな展示スペースの入口には、植村氏遭難のニュースから3ケ月後、捜索隊がマッキンリー山頂(6194m)で発見した、植村氏が残した日の丸の旗が展示されている。
入口から一歩足を踏み入れると、ベースキャンプ(5200m)に残されていた装備の数々の展示。
90L容量はあろうかという巨大なフレームリュック、スコップ、のこぎり、真っ赤なアウター、手袋、靴下、スノーシューズ、遭難の前日までの行動が記された大学ノートなど、どれも雪と汗で滲んだ汚れの跡が生々しい。
そして、ベースキャンプでの様子を本人が撮影した、3分ほどの無声映像が繰り返し上映されていた。展示品と同じ装備品一式を雪の上に広げ、ひとりカメラの前をせわしなく動きまわる植村氏の最後の映像だ。
これら残された装備と記録ノート、映像、写真などの研究から、これまで謎とされてきた植村氏最後の冒険の目的が、解明されつつあるのだそうだ。
一番注目すべき点は、この厳冬でのマッキンリー挑戦にもかかわらず、装備品の中にテントがないことと、山中に残されたノートに雪洞の作り方が克明に記録されていること。
どうやら、厳冬のマッキンリーで、テントを持たず、毎日雪洞を作りながら一人山頂を目指す、という計画だったのではないか、といわれている。
北極圏の寒気が直接吹き付けるマッキンリー山頂付近では、雪洞づくりを30分以内で終えられなければ、それは死を意味するという。
アラスカに入ってから、植村氏がスコップとノコギリを使って雪を掘り出し、氷を切り出して雪洞を作る訓練を毎日していた、という目撃談も残っているそうだ。
今もって”冒険家”と呼ばれる植村直己の活動の真髄は、誰もが挑んだことのない人間の可能性に、つねに立ち向かっていった点だ。
「冒険とは、生きて帰ること」との自らの名言が空しい今となっては、「挑戦家」と呼ぶのが相応しいように思う。